マーケティングがわかりにくい、たった一つの理由

ストーリー

「マーケティング」はわかりにくい。

「マーケティングとは」とGoogleに入れると、それらしき答えがいっぱい出てくるが、順番に見ていくとみな違うことが書いてある。共通なのは、「なにやらいっぱい売りたいらしい」ということぐらいで、あとはみな言っていることが違う。他でみたことがある話しは、たとえばホームセンターにドリルを買いに行く話しだ。

「お客様はドリルがほしいのではない。穴がほしいのだ」

そんなことはないと、反射的に思ってしまう。ドリルの造形美や機能美にほれこんで、コレクションしないまでも、工具箱に入れたままなのをときどきみてはいい気分になる、その気分を買っているのかもしれない。少なくともぼくはそうだ。それはただぼくが変態なのか。

するとそれに答えるかのように「ワン・トゥ・ワン・マーケティング」と出てきたりする。一人ひとりの好みに合わせて違うことをやろう、という名前通りの意味だから、わかりやすい。そういう変態さんにも合わせよう、ということだ。でもよく読むと、似た人をグループに分けてそれぞれのグループに対してやることを変える、というだけだったりする。よくよく読むと論理がすり替えられていたり、ヒドイ場合はまったくのハッタリだったりする「マーケティング」があるので、ますますわかりにくい。

「なにやらいっぱい売りたいらしい」ということの他に共通なのが、「お客様のことを知りたいらしい」ということだ。お客様のことがわかれば、買ってもらえるかどうかわかる、というわけだ。しかし、お客様は普通たくさんいて、わかりにくい。そもそも目の前にいるヒト一人だって十分にはわからないのに、「マーケティング」は不特定多数を対象にしていたりする。でも、「マーケティング」のわかりにくさは、ただでさえわからない人間を、さらにいっぱいたばねて理解しようとしているからだと考えると、少しだけ納得がいく。

「お客様のことを知りたいらしい」の、お客様の「こと」とは結局、お客様の「気持ち」ということだ。つまり「相手の気持ちを理解したい」と言いかえるとなんだかものすごく近づいてくる。それは人間社会の中に生きていればだれもが思うことで、たいていは相手の気持ちを理解できないために悩み苦しんでいる。逆に、相手の気持ちを理解する、つまり、共感するからともに喜べる。

でも、「相手の気持ち」は目に見えない。「相手の気持ち」が原因となって表現される言葉や表情やしぐさは目に見えるが、「相手の気持ち」そのものは目に見えない。すると、「マーケティング」のわかりにくさは、目に見えないからだという気がしてくる。

「相手の気持ちを理解したい」と思ったとき、それは相手に関心を持ったことになる。無関心なら理解したいと思わないはずだから、関心があるのだ。相手に関心を持ち、何に喜んで何に怒り、何に悲しんで何を楽しむのかを理解したい。そして、相手が喜ぶことをして、ともに喜びたい。相手が楽しいことをして、ともに楽しみたい。しかし、その喜怒哀楽の感情自体は目に見えない。表情や言葉などのリアクションで推測することしかできない。目の前にあるとわかっているのに目に見えない。でも伝わる。

目の前にいなくても、たとえば文章や写真、映像を使っても、なぜか気持ちが伝わる。もし伝わらないのなら、小説や映画に感動して涙するとかありえないからだ。そもそも、目に見えないけど伝わって、目に見えないけどあると思っているものはもっとたくさんある。たとえば、暑苦しい情熱、少しの勇気、幼なじみの友情、親子の愛情……相手に関心をもって、相手のことを理解したくて、相手の喜ぶことをしたいという気持ちは、一言で言うなら「愛」と呼ぶべきだろう。男女の愛というよりは、誰に対しても抱くことのできる思いやりとか親切とか、あるいは会社の後輩に教えたくなる気持ちとか、そういう気持ちを含んだ「愛」だ。

だから、「お客様が愛されたと感じて、感動し涙しながら買う」実現することが「マーケティング」なら、それはわかりにくいはずなのだ。

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