昔の自慢話しをしなければならない、たった一つの理由

ストーリー

昔話をしないように気をつけている。

コンピューターやインターネットの技術を解説するときに、どうしても20年前や30年前の話しをしたくなってしまう。「インターネット老人会」などという記事が定期的に流れるほど、この気持ちは誰でも持つらしい。話す自分は楽しいが、聞いている側は意外と役に立たないし、よくわからないので、せいぜい「へー」としか思わない。

他にも昔話をしない理由はいくつかあるが、おそらくは論理性がほとんどなく、単に感情的なだけの理由がある。それは、自分が嫌だったからだ。

つまり、50歳や60歳のおじさんに、繰り返し、同じ昔の成功談・・・といえば聞こえはよいが、要するに自慢話しをたくさん聞かされていたからだ。そしてそれは、意味がないものだと思っていた。

「(またかよ。)」

心の中でそう思っていたし、おそらくは態度にも出ていただろう。それでも。

それでも「おじさん」たちは、繰り返すのをやめなかった。そこまで自慢したいのか、知ってるよ。ぼくはものすごく嫌だった。だから、自分は後から来る後輩たちに、昔話をできるだけしないのだと思っていた。

ところが先日、突如としてその理由がわかった。

こういうのを悟りというのか、天啓というのか、よくわからないがとにかく唐突に理解した。昔の自慢話を繰り返さなければならなかった理由が、理解できた。

それは、他に伝える方法がなかったからなのだ。

この話しのわからないヤツに、コレを知らないことさえも知らない若者に、どうやって伝えたらいいのか。昔の成功談を話すことしか、思い当たらなかったからなのだ。

そして、それは成功していない。実体験済みである。知らないことも知らない若者は、「またかよ。」と思うだけで聞きもしないから、どのみち伝わらない。でも当時の「おじさん」たちには、それしか伝える方法がなかった。そして、若者は、嫌だったということ以外何も覚えていないのだ。

時は流れていた。

今度は自分がその「おじさん」たちの年齢になり、20代の若者たちと話すようになった。そしていつのまにか、昔出会った「おじさん」たちのように、20代の若者に向かって、「自分の昔の成功体験=自慢話し」をし始めた自分に気がついたとき、ようやくその気持ちと理由が理解できたのだから、愚かの極みではある。

しかし、同時に、師と仰ぐ先生が「30ぐらい歳のはなれた友だちをつくりなさい。」とおっしゃった言葉の意味が、ほんの少しだけわかった気がした。

だから若者は年寄りの自慢話しを聞くべきだ、とはまったく思わない。つまらない話しは聞かなくていいし、顔だけニコニコしつつ「またかよ」と思って拒否するべきだ。

年寄りは、もっと伝わるにはどう話すのがよいか、考えて考えて考えて考え抜いて、伝えていくべきだから。

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