いまだにタッチパネルを使わないどころか忌み嫌い、キーボードやマウスを愛用してしまう理由

ストーリー

タッチパネルが嫌いだ。

だって、せっかくのキレイなディスプレイが、汚れてしまう。指紋がついたり、手の油がついたりしてしまう。私がほしいのはその奥にある情報や知識であって、その間にたってそれを阻害するのが「タッチパネル」なのだ。

なのに時代は、タッチパネル全盛、タッチパネルあたりまえ、という状態にどんどん近づいていっている。

タッチパネルは意外と古くからあった。マウスが登場するのと同じ1960年代までさかのぼる。しかし、いまのトレンドを決定的にしたのは、スティーブ・ジョブズが「iPhone」を発売したからだ。タッチパネルをあたりまえのものとして組み込んで、圧倒的にスゴイUX・すばらしいユーザー体験をつくってしまった。それから10年以上の時が流れて、画面にさわって操作できること、いやむしろ、画面に触る以外の操作方法がなくなっていくことが、トレンドとなっている。

最近パソコンを新しく買ったのだが、ウチに届いて使ってみるまで、ディスプレイがタッチパネルに対応していることに気がつかなかった。生まれて初めて実物を確認しないでパソコンを買ったから、という理由もあるが、それぐらい、だれもがほしくて、あたりまえで、安いものになったのだと痛感した。

だが、タッチパネルがついていても、キーボードとトラックパッドやマウスで、相変わらず操作する。タッチパネルを活用するのは、唯一、電卓アプリを使うときだけだ。このときだけは、タッチパネルがしっくりくる。それ以外は、一切使わない。

キラいなモノを身近においてしまったために、なぜ嫌いのなのか、考えざるをえなくなった。20年にわたってコンピュータとインターネットを使って仕事をしてきたのだから、そして、そのキャリアの半分はスマホ対応をやってきたのだから、考えるべき義務もある気がする。それに対してコメントと結論が出せる構えを、とっておくべきな気がする。

何がキラいなのか。
タッチパネルに一番イラっとするのは、画面に指先や指の爪があたったときの「カツン」という瞬間である。しかも、必要以上に強く「カツン」とやっていることに、気がついた。

なぜそんなに強く「カツン」とやってしまうのか。
答えはカンタンで、もっと奥、画面の向こう側に、指を伸ばそうとしているからだ。つまりそのとき、私の目的はディスプレイに表示されているボタンや、選ぼうとしているテキストなのであって、その目的物の手前に、パソコンを操作するにあたって意識する必要のない「透明なガラス」があって、それに阻まれるわけだ。

常にその透明なガラスがあることを忘れているのってどんだけバカなんだ、という気もするが、逆に言うと、これを忘れたい、これを無視したい、という強烈な潜在的欲望があるらしい。

ここまできて、やっと、キラいな理由に気がついた。
画面の奥に、手を突っ込みたいのだ。それを手でつかんで、指先で触れて、直接に操作したいのだ。だから、そのジャマをするタッチパネルにいちいち「カツン」「カツン」とつっかかって、怒りをぶつけていたのだった。

アホなのかもしれない。

ただ、コンピュータの中、あるいは、インターネットの世界に没入したい、という欲望は、普遍性がある。つまり、私だけじゃない。

例をあげればキリがない。

古くは、「ニューロマンサー」という小説がある。SFの原点に位置するといわれる小説で、主人公は頭に装置をつけて、ネットの世界に「ジャック・イン」する。意識というか魂というか、とにかく自分をそのサイバー空間に没入させてしまうのだ。

少し前に大ヒットした「マトリックス」という映画は、実はいま暮らしている空間自体が、未来のAI・コンピューター・機械が作ったサイバー空間で、我々はその中に意識として暮らしていて、肉体はその外側にセットされているのだ、という設定だった。

「マトリックス」を製作・監督したウォシャウスキー兄弟(現在は、姉妹)が大好きだった日本の「少年ジャンプ」に載っているマンガをみれば、ここではない別の空間、別の世界と行ったり来たりする話しのオンパレードだ。むしろ常識的に、たいした説明もなく利用される設定だ。

ここ2~3年で大流行しているのが、「異世界モノ」と呼ばれるマンガやラノベ(ライトノベル・小説)だ。つまり、MMORPG、もっと広く知られている言葉でいうと「ドラクエ(ドラゴンクエスト)」などのゲームの世界に、実際に行ってしまう設定のストーリーだ。ゲームは、キーボードやマウス、ディスプレイ、スマホゲームであればタッチパネルを使って操作する。だから、MMORPGは、それらを経由したうえで没入感を味わうことができる、ある意味選ばれたヒトたちが熱中するものでもあるのだ。

テクノロジー用語でいえば、「VR(バーチャル・リアリティ)」は意外と古い言葉で、私の記憶のある中だけでも、流行しては消えていくことを何度か繰り返している言葉である。いま一番盛り上がっている関連用語は「VTuber」、つまり、自分の身代わりとなる3Dモデルを画面の中にあらかじめ準備して、たいていは自分の動きをダイレクトに伝える装置を身につけて、その操作を画面の中の3Dモデルに伝える、というものである。これも結局、マウスやキーボードでの操作と、本質的に何の違いもない。

そして、ふと思い当たった。20年以上前に同じことを考えて、小論文を書いたりアート作品を作ったりしたことを。(※その小論文の該当箇所を最後に添付する)

そのときは、「UI(ユーザーインターフェース)」を考えるというテーマを掲げていた。「UX」という言葉のほうがいい感じで「UI」はあまり使われない言葉になりつつあるが、そのときの問題提起はいまでもまったく変わっていない。

まさに没入感をテーマにしていた。
画面の中に、頭や手を突っ込みたい欲望・衝動を、どのように解決するかを考えていた。

20年以上の月日が過ぎて、ネットやテクノロジーは進化進展激変したと思っていたのに、本質的に何の変化も変革もなく、革命なんて起こっているはずがないことを瞬時に理解して、頭がクラクラする。

でも、キラいな理由はわかった。
必要以上にイライラするのは、私が今世の命をかけてきたネットやコンピュータのテクノロジーが、あまりにも進化していないことに対する、やり場のない憤りなのだった。20年もやってきて、解決できていないのは自分の責任でもある。わかっていたのにちっともそれをやろうとしなかった自分の責任を感じたくないがために、怒りを潜在意識の下に押し込めていたのだった。

(了)


1998年に書いたIAMASでの「卒業論文」の冒頭をそのまま掲載する。ドロップアウトしたいと切望しながらも脱出しきれない劣等感と独りよがりがそのまま表れていて、当時の気持ちが伝わってくるのが自分には恥ずかしいが、他人にはそれほどでもないと思われるので、1998年に同じことを言っていた痕跡として、そのままコピペする。

現状

現在、視覚を中心においたメディアが、隆盛を極めている。
テレビ、ビデオはもとより、インターネットにおけるメール、WWW、それらの入り口となるコンピュータも、視覚なしに成立しえない。新聞、雑誌、書籍なども、視覚障害者向けなどが一部あるにせよ、視覚を前提にしたメディアと言える。
このことが、テクノロジーの発展と深く関わっていることは事実であるが、それとは別に、視覚メディアが、その前の時代にない、大きな情報量とインパクトを持っていた事が、現在の社会状況を作り出す大きな要因となっている事は、間違いない。
しかし、それらメディアが普及し、比較的安定したここにきて、新たな問題が浮き彫りになってきている。
それらの問題のひとつとして、ここでは、まず初めに、これら視覚メディアの「つながりの希薄さ」について考えてみたい。

一つの例として、コンピュータインタフェースをとりあげよう。
現在もっとも普及しているユーザインタフェース(UI)は、言うまでもなく、マウス、アイコンなどによる、ウィンドウ操作のインタフェースである。「ドラッグ&ドロップ」「WYSIWYG」などという言葉に表されるとおり、見ているものを、持ち上げたりつついたりして、操作を行う。
これは、実物をシミュレートすること、つまり、日常的なリアルオブジェクトへの比喩を利用したインタフェースの実現を目的としている。ある時期に頻繁に取り沙汰され、叫ばれてきたことが、ようやく実現し民衆の手元に降りてきた、とも言える。
しかし、たとえば、フォルダをドラッグアンドドロップすることと、(実物の)本を別の棚へ移動させることでは、両者の感覚は全く違うものになる。
その違いの中には、いろいろな要因が含まれているが、非常に大きなウェイトを占めるのは、「操作をした」という感覚、つまり、フィードバックのクォリティであろう。
前者では、いかなる操作をしようとも握っているマウスはひとつであり、下手をするとどのフォルダも同じ形をしていて音がなってもどれも同じだったりする。
これに対し、実物の本というのは、その見てくれは一つ一つ違う事が多い。そして、視覚のほかに、手触り、重さなど、さまざまなファクタが絡み合い、一つ一つの本は別個のものであると、明らかに認識できる。

現在のマウスGUIは、比喩として設計してあるので、使う側はある程度その比喩を信じ込んで使うほうが都合がよい。信じているのだが、上記のような理由から、実のところ絶対に信じきる事はできない。それが、不安となって少しずつ蓄積していくのではないだろうか。ここに、本当にそれを操作しているのかという不安感、そして、操作できていない=つながっていないのではないかという「希薄感」が、たち現れてくる。

もうひとつ、絵を描くソフトウェアの操作を考えてみよう。
昨今ソフトウェアは多機能化の一途をたどっており、色や太さを変えて線を描けるぐらいではかなり陳腐であるが、たとえばただ単に色を変える場合、それは別のところにあるメニューの選択を変更することであり、うまくするとマウスのポインタの色や形が変わったりする。
これは、(実物の)色鉛筆などをシミュレートしている、と考えることができる。メニューを選択して違う色を選ぶことは、違う色の鉛筆に持ち替えることを意味している。しかし、このシミュレートには大きな落とし穴がある。それは、手とそれによって描かれる色・線との距離である。
動かしている手と描かれる色との関係性の把握の難しさ、と言い換えてもよい。
色鉛筆は、当たり前であるが、手に握られている色鉛筆と線が描かれる紙とは非常に近い。(この「非常に近い」ということが絶対的な距離として測定可能かどうか、ということは、ここではひとまず議論しないでおく。)この関係性の把握は容易である。
これに対して、マウスと、ディスプレイ、つまり、色が描かれる面、というのは、離れている。マウスを視界に入れながら、ディスプレイも視界に入れて使っている人は、ほとんどいないだろう。どちらを強く認識するか、というと、熟達するにしたがってマウスのほうを認識しなくなり、ディスプレイだけを凝視することになる。
ここにも、前述と同様な「つながりの希薄さ」の蓄積が、発生していく。
とあるパソコン初心者講習会で、「マウスを画面の左隅へ持っていってください」と講師に言われてディスプレイに握り締めたマウスをがちんとあてがった、という話しも、笑い話では済まされないのである。

しかし、ちょっと観点を変えてみよう。これは、非常に便利であることに気がつく。つまり、鉛筆をたくさん持たなくてもよく、持ち替える必要もない。「描いている」という現実的感覚(実感)を感じるためには余計に想像力(信じ込むこと)を要求されるが、その代わりに、すべての色の鉛筆をけずったりその場に並べておいたりする労働から解放される。
逆に言うと、このような便利さがクローズアップされ、発展してきたことで、たとえば印刷・出版の現場に代表されるような様々な大変革が起こった。その裏で、自分の行動に対するフィードバック、いわゆる「実感」とも言えるようなものを捨ててきている。その捨ててきたものが認識される時代に来ているのである。

テレビのつながりの希薄さがコンピュータ以上であることは言うまでもないだろう。
コンピュータユーザは、通常、ビール片手にぼんやり眺めている時間などはほとんどない。多くは、マウスを握り締め、キーボードを叩き続け、ディスプレイを凝視しているに違いない。
視聴者参加型番組などと叫ばれながらも、ほとんどの視聴者は、流れてくるものをただぼんやりと眺めている。テレビ番組に、自分との強いつながりを感じる事は、ほとんどないと言ってよいのではないだろうか。

では、現状、視覚メディアとは呼べないにしても、それに向かって発展しようとしている携帯電話はどうであろう。
言うまでもなく、電話というメディアは、現代人にとっては非常に慣れ親しんだものになっている。音声の伝送については、そのテクノロジーの歴史、都合から、サンプリング周波数8kHz、データ長8bitが基準となっている。(携帯電話は、これよりも低いレートで、圧縮技術を使い、この音質に近づけようとしている。)
これはすなわち、(理論的に)4kHzより上の周波数をすべてカットする、ということを意味している。実際に聞く声と電話を介した声を比べると、男性よりも女性の声の方がより違って聞こえるのは、女性のほうが高い声、つまり、周波数の高い成分が多いからである。
これに対して、人の耳は、20kHzぐらいまでの音が聞こえると言われている。実際には、もっと高い周波数の音も影響を与えていると言われるぐらいである。
よって、電話では、実際に会って話すときに聞こえてくるもの--雰囲気、細かな口調、周辺の音(相手の場との違い)等々--が聞こえてこない。通常、話しの内容に注意が向いているから気がつかない、気にしないことも多いが、空気感のようなものが伝わらないがゆえに、いろいろな現象が起こっているのは、少し違った注意をしてみると、明らかになると考える。
これは、メディアの伝送容量の問題、つまり、単なるテクノロジーの枠組みの問題と考えがちであるが、実際に会わずに済ますことができる便利さを獲得した、その代わりに、捨てているものの存在を、指摘したい。

ここで、もう一度、前述のマウス操作の例を考えてみよう。
マウスを操作する場合、本当に操作したいもの、その目的物はディスプレイの中にある。つまり、そこに没入して、マウスは「存在しないもの」あるいは「自分の手の一部」となることが要求される。GUIの操作に熟達すればするほど、この傾向は顕著となる。
これに対する例として、再び、リアルオブジェクトの本についてを考えてみよう。本を手に取り、表紙から一枚一枚ページをめくる。本をめくるとき(多くの場合)その目的はその中に書いてある文字を読み内容を把握することにある。しかし、そのとき、その表紙や紙は、明らかに体の一部ではない。それは「本」という自分とは切り離されたリアルな物体である。
今までの論証に照らすと、一瞬疑問を抱くかもしれないが、実はここに新たな「希薄さ」が浮上する。
それは、認識する空間の希薄さ、と言えるであろう。
マウス操作に熟達しディスプレイに没入したとき、マウスが手の一部となった、つまり、一部と認識されたとき(顔を半分ディスプレイに突っ込んだ状態を想像すればよいのではないだろうか。)、その中にバーチャルワールドのようなものを想定するほうが、思考が単純になる。そういう状態にある時、その世界の広さの規範となりそうなメモリやハードディスクの容量は、結局のところ数値であり、たとえグラフや絵で表されようとも直感的には把握できない。そして、ネットワークに接続されているなら、そのバーチャルワールドは把握不可能なほどの広さに感じるだろう。
これに対して、リアルオブジェクトの本は、確実に実感として把握可能な空間範囲内に収まっている。その実感とは、上記にあげたように、手触りであったり、ページをめくる音であったり、匂いであったり、もちろん、人の視野の中にもしっかりとおさまるのである。
ここに現れるのは、空間の密度の違い、そして、空間の境界がはっきりと認識可能であるかどうか、という違いである。

対して、全く希薄ではない、という意見もあるかもしれない。
しかし、現状、人は、まだまだつながろうと--コミュニケートしようと--している。新しいメディアが出現し普及してくると、みんながそれを使うようになる。まだまだ人々は新しい、もっといい、もっとすごいメディアを求めている。これは、まだまだつながりたりない人々の欲求の現われではないだろうか。

論点が少しずれるが、昨今のインタラクティブアートにも同様なことを感じる。
すなわち、ディスプレイやプロジェクションなど、視覚を中心にしたものばかりなのである。フィードバックが視覚のみ、というのが、どうにもインパクトがなくて、どうにも面白くない。音があっても、それは、たとえば映像に添付されたもののようでしかないことが多く、それはすなわち視覚のみなのだ。これは、前述の「希薄さ」(関わりの中での触覚の欠如)と大きく関わっているものと考えている。

「希薄さ」の他に、もうひとつの問題点として、「情報量過多」をあげることができる。
これもインターネット、つまり、電子メール、ネットニュース、WWWなどに、顕著に現れている。それらから、自分のほしい情報を引き出すためには、かなりの頭脳労働を強いられる。検索エンジンサイトや、書籍検索販売サイトの株価がうなぎ上りになったり、ポータルサイトなどという言葉が定着してきたのも、ユーザが、あまりにも大量の情報に巻き込まれている事の象徴であろう。つまり、大量にある情報をかいつまんで紹介することが、大きなビジネスになる時代なのである。

では、次に来るメインストリームは何であろうか。
これまで述べてきたとおり、現在の視覚中心のメディアは、あまりにもリアリズムに欠け、情報量過多に陥っている。そういったメディアは近い未来に、その役目の転換をせまられるであろう。
今、社会に求められているのは、大量の情報などではなく、若干のImpressionであり、多大なるインパクトである。
それらを与えてくれるのは、自ずと、視覚にたよらない、非視覚中心のメディアである。触覚、皮膚感覚、嗅覚、味覚、聴覚、固有感覚など、科学的に解明されているものだけをあげても、いわゆる五感の他にもまだまだある。これら欠如しているものを加えていくのは、当然の流れとも言える。そして、これらが、視覚より大きなインパクトを与えやすいのは、経験則的にも明らかであろう。
しかし、現在のメディアテクノロジーは、そのほとんどをサポートできていない。


実は、この論文は自分の手元になく紛失していた。いまさらIAMASのサイトで公開されているわけもなく、「Internet Archive」を探したら瞬間的に見つかった。すごすぎるよ「Wayback Machine」サービス。(※引用元リンク

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